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令和最大の爆死映画「屋根裏のラジャー」レビュー

2.0
屋根裏のラジャー 映画
屋根裏のラジャー (C)2023 Ponoc
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評価 ★★☆☆☆(31点) 全108分

映画『屋根裏のラジャー』予告①【12月15日公開】

あらすじ 少女アマンダの想像が生み出した少年ラジャーは、彼女以外の人間には見えない「想像の友だち(イマジナリ)」だ引用- Wikipedia

令和最大の爆死映画

本作品はスタジオポノックによるアニメ映画作品。
監督は百瀬義行。

説明

映画の冒頭から説明セリフで始まる。
子供の頃に想像したことが誰しも1度はあるかもしれない、
この作品は自分が想像した「空想上の友達」、
いわゆるイマジナリーフレンドを題材にした作品だ。

ラジャーという金髪の少年は「アマンダ」という少女が想像した存在だ。
そういう基本的な設定の説明をラジャーが
1から10まで丁寧に説明してくれる。

その裏では空想の世界が広がっている、
子供が想像するからこその無限の世界、自由な世界は
綺羅びやかなアニメーションで描かれており、
空想上の生物が多く存在し、そんな世界を自由に冒険することができる。

その世界観の描写は素晴らしいのだが、
キャラクターデザインにかなり癖がある。
一瞬「ジブリかな?」と勘違いさせるようなデザインは詐欺的であり、
そんなデザインもジブリと違ってかなり癖がある

作画自体はフルCGではなく手書きなのだが、
CGのような立体感を感じさせるような描写になっており、
これが独特の味わいを生んでいる一方で強烈なクセも生まれており、
キャラクターをかっこいいともかわいいとも感じにくいような、
いい意味でも悪い意味でも日本のアニメっぽくないクセがある作品だ。

キービジュアル、映画のポスターのデザインに
本サイトではあまり言及することはないが、
このデザインセンスもかなり悪く、あまりに「金ピカ」な
デザインのせいで、どこか宗教映画っぽさすらある。

このキービジュアルが、もしかしたら、
この作品の興行収入がのびなかった原因の1つかもしれない。

海外

そんなイマジナリーフレンドのラジャーは
「アマンダ」にだけ見えて、普通に彼女の前に実体化している。
時に学校に連れて行ったり、屋根裏で想像の世界で遊んだり。
子供時代に人形が本当に喋っているように遊んでいる子供のように、
彼女もイマジナリーフレンドを相手に遊んでいる。

「アマンダ」は一人っ子で片親の女の子だ。
父親を早くに失い、母は父が経営していた本屋を生業にしてはいるものの、
そんな本屋も閉店直前で母は転職を考えている。
彼女にとって、この本屋が、この家が居場所だ。

そんな居場所がなくなってしまう寂しさを抱えながら、
「父親」という大切な人の死をまだ消化しきれないままの少女は、
決して「本音」を母には話さず、涙も見せず、気丈に振る舞わっている。
だからこそ、そんな心から漏れ出た感情、抑え込んでいた感情の
産物が「イマジナリーフレンド」であり、ラジャーだ。

心の支えといえばわかりやすいかもしれない。
妄想の世界に入ることでつらい「現実」から逃れ、
一人遊びにふけっている。一人遊びは子供の「成長」には必要不可欠なことだ。
彼女は子供だ、この作品はそんな彼女の成長の物語でもある。

怖いおじさん

そんな序盤の説明がおわり、世界観を理解させた後に
怪しげな「おじさん」が彼女の店に訪れる。
本来、イマジナリーフレンドは大人には見えないものだ。
子供にしか無い「想像力」、そんな想像力の産物である
イマジナリーフレンドは大人には見ることが出来ない。

ただ、映画中盤になると色々なイマジナリーフレンドが出てくるのだが、
それを考えると、アマンダ以外の子供のイマジナリーフレンドが
もっと街や学校に居てもおかしくはないと思うのだが、

街中には誰かのイマジナリーフレンドはほとんど居ない。
自分が生み出したイマジナリーフレンドしか見えないという
設定ならばまだわかるのだが、
怖いおじさんや終盤では「母」もイマジナリーフレンドが
見えるようになるため、このあたりの違和感は凄まじい。

そんな怖いおじさんは大人なのに「イマジナリーフレンド」がいる。
まるでホラー映画に出てくるような黒髪の少女を付き従え、
なぜか「ラジャー」を狙っている。

この怖いおじさんの「イマジナリーフレンド」が普通に怖い。
ジブリなどのキャラクターにも怖いキャラクターは居るが、
ジブリとは方向性が違う和製ホラーっぽい怖いキャラクター描写は
子供が見ると泣いてしまうそうなおどろおどろしい描写だ。

このあたりの描写も、子供向けにしたいのか、大人向けにしたいのか、
どっちつかずになっている感じは否めない。

そんな怖いおじさんに狙われていることをアマンダの「母」は信じてくれない。
彼女が必死にラジャーが狙われてる!と訴えかけても、
母には肝心のラジャーは見えず、彼女の世迷い言だと相手にしてくれない。

彼女にとってラジャーは大切な存在だ。
そんな彼がおじさんに「食われそう」になりながら、
必死に逃げる中で彼女は事故にあってしまう。

イマジナリーフレンドは想像した子供が大人になって
想像力を失うか、もしくは、その子供が想像できない状態、
つまりは「死」や「意識不明」の状態になってしまうと
存在が消滅してしまう。
子供の想像力があるからこそイマジナリーフレンドは存在していられる。

アマンダが事故にあってしまったがゆえに
ラジャーの存在は消えかけてしまう。
そこに現れるのが怪しげな猫だ。

図書館

猫もイマジナリーフレンドだ。
イマジナリーフレンド同士は互いを認識することができ、
子供に忘れられたり、子供が死んでしまったイマジナリーフレンドたちは
とある「図書館」で過ごすことで自身の存在を保つことができる。

このあたりの設定はうまく出来ており、
「図書館」という人間の想像力の塊である本がある場所だからこそ、
子どもたち、創造主とも言うべき存在から見放された
イマジナリーフレンドも図書館でならば生きていけるのは面白く
納得できる設定だ。
もっとも、それならばTSUTAYA当たりでも行けそうな感じはあるが(笑)

多くの仲間、イマジナリーフレンドたちとともに
自身の存在意義についてラジャーは考える。
アマンダが生きているか死んでいるのかすらわからない、
もし生きていて意識が戻っても、大人になればアマンダに
忘れられて消えてしまうかもしれない。

多くのイマジナリーフレンドたちがそんな経験をしている。
図書館という場所で彼らは「子どもたちの想像」の世界の
登場人物になりきる仕事をしており、
仕事ぶりがよく、子供に気に入られれば新しい創造主に
なってくれるかもしれない。

アマンダのもとにあえて戻る必要はあるのか?
第二の人生という選択肢がラジャーの前にも示される。
この作品は「トイ・ストーリー」と似ている。

トイ・ストーリーは子供時代のおもちゃたちが
意志を持っているという設定の作品であり、
トイ・ストーリー、2,3の中で持ち主が成長し、
「捨てられる」ことへの不安や別の道の可能性なども描いていた。

この作品はイマジナリーフレンドという形で
トイ・ストーリーと似たようなことをやりたいんだろうなというのは
すごくわかるものの、それを伝えきれていないもどかしさがある。

特に設定は話が進むごとにややこしくなってくる。
イマジナリーフレンドがいる、見える世界というだけならまだしも、
そこに子供が想像力を失うか死んでしまうと消えるという設定が
出てきたかと思えば、図書館というセーフティーエリアの設定がでてきて、
「ミスター・バンティング」というイマジナリーフレンドを
食べる存在も出てくる。

更にそこにイマジナリーフレンドは創造主に見放されても、
別の子供のイマジナリーフレンドになれるという設定や、
子供に見放されたイマジナリーフレンドは図書館以外の場所だと
1日位で消えてしまうという設定など、
どんどんと設定が追加され、その説明セリフも非常に多い。

だからこそ、トイ・ストーリーにはなれていない。
おもちゃには実は意志があって人間が見ないところで動いている、
その設定だけで物語を作っているトイ・ストーリーとは違い、
この作品は設定がてんこもりだ。

その設定を説明するためだけのキャラクターも非常に多く、
別に居なくても良かったんじゃ…?と思うようなイマジナリーフレンドも多い。
キャラは多いのにキャラクターを使いこなせていない歯がゆさが
つきまとってしまう作品だ。

想像の世界を描くという自由な世界観こそ面白いのだが、
ファンタジーな世界かと思えばSFな世界になったり、
和風な世界になったり、空を飛んだり、海に沈んだりと、
場面転換が非常に忙しく、その状況の変化に追いつくのに
やや疲れてしまう部分がある。

追いかけっ子

この作品は108分程の作品だが、あと20分ほど、
90分くらいに話をまとめられたのでは?と感じる程、
冗長なシーンが多く、作品全体に締まりが無くなってしまっている。

特に怖いおじさんこと「ミスター・バンティング」はしつこい。
彼は他人のイマジナリーフレンドを「食べる」ことで
想像力と寿命を得てきた存在だ。
だからこそ大人になってもイマジナリーフレンドを見ることができ、
長い時間を生きている。

ラジャーは彼に言わせれば美味しそうなイマジナリーフレンドだ。
アマンダという想像力豊かな女の子が生み出した
極上のイマジナリーフレンドを怖いおじさんは狙っている。
この追いかけっこがしつこいくらいに繰り返される。

序盤でアマンダたちの本屋に侵入してきたかと思えば、
アマンダと母とお出かけしたラジャーを狙ってきて
事故の原因にもなったかと思えば、
今度はラジャーが単特で町中にいるときにも現れて襲ってくる。
更に終盤にはアマンダが入院している病院にも現れる。

ラジャーが食べられそうになる!というシーンも非常に多く、
序盤の時点でかなり頭の半分くらいを掃除機で吸われてるみたいな
シュールな光景すら描かれている(苦笑)
終盤でもラジャーが捕まって食われそうになって、
吸い込まれて顔面が引き伸ばされて大変なことになっている。

その絵面があまりにもシュールすぎて笑ってしまうほどだ。
ほとんど食われてるといってもいいくらい飲み込まれてるのに、
飲み込まれ切る寸前で助かるみたいなパターンが多い。
もうそれは食われてるといっていいのでは?と思ってしまうほど
飲み込まれている。

終盤でラジャーが1度、アマンダ以外の別の子供に気に入られて
別の子供の「イマジナリーフレンド」にされかけて
女の子になってしまうというシーンがあるのだが、
コレに関しても「必要だったのか?」と感じるシーンだ。

ラジャーを演じている寺田心さんの演技は非常に素晴らしく、
男の子と女の子、その中間の演技分けは本当に素晴らしく、
彼の演技力に救われている部分も多い。

理由

終盤でラジャーがどうして生まれたのかが描かれる。
父親が死に、その死を受け止めきれていないアマンダはある誓いをする。
いなくならないこと、母を守ること、泣かないこと。

それは父の死を受け止めるためのものだ。
父のようにいきなり居なくなって母を悲しませないように、
家族である母を父のかわりに守るために、
心配させないように泣かない。

子供にとってはあまりにも重い誓いだ。
そんな重責から生まれたのが「ラジャー」だ。
そんな思いをしったアマンダの母のエピソードは悪くはなく、
うっかり涙腺を刺激されかけるほどだ。

ただ過剰なほどに「涙」の描写が露骨だ。
何度かキャラクターが泣くシーンがあるのだが、
あまりにも大粒のナミダを流しまくっているため、
涙が大粒過ぎて見ている私の涙が引っ込んでしまった。

制作側としては「ここが泣くポイントです」と強調するための
涙なのはわかるが、それが露骨に見えてしまう。

イマジナリーバトル

終盤になるとイマジナリーバトルが始まる。
長い時を生き続けてきた「ミスター・バンティング」と
意識不明の重体から目覚めた「アマンダ」が互いの想像力を
ぶつけ合いながらバトルをする。

このバトルシーンはあくまでも「想像」の話だ。
その想像力のない母親からすれば、彼らがなぜかうずくまっていたり、
苦しそうにしているようにしか見えない。
凡夫には理解すら出来ないバトルが繰り広げられている。

そんな中で母もかつて自分にイマジナリーフレンドが居たことを思い出す。
子供の頃に「冷蔵庫」を「犬」に見立て遊んでいた過去、
娘と同じように自身にもイマジナリーフレンドがいたことを
思い出した母は自身の「イマジナリーフレンド」を召喚する。

どこの少年漫画だといいたくなるような展開は
ちょっと色々と突っ込みどころが多い。
特に「ミスター・バンティング」のイマジナリーフレンドは
唐突に彼を裏切り、ラジャーのかわりに彼に飲み込まれてしまう。

散々、彼のためにイマジナリーフレンドを捕まえて彼に食べさせていたのに、
ラジャーとアマンダの関係性になにか感化されたのか、
急に創造主を裏切ってしまう。
色々と彼女の中にも察するものがあったのかもしれないが、
いまいち見ている側には心境が伝わりきらない。

ラスト

ラストの展開は人によって受け止め方が違うかもしれない。
ラジャーはあくまで「父の死」を受け止めるために
アマンダが生み出した存在だ。

しかし、ラストでアマンダは父の死を受け入れている。
母が自分のイマジナリーフレンドを信じてくれたこと、
母もまた自分と同じくイマジナリーフレンドがいたこと、
多くの人に愛されていることを実感した。

だからこそ「ラジャー」とはお別れだ。
意味がわかるだろうか(苦笑)
唐突にアマンダとラジャーが最後の冒険を初めてしまう。

アマンダは別にまだ大人になるわけでもない、
母もかつての自身のイマジナリーフレンドを思い出して眼の前に存在している、
アマンダが大人になるまでの時間は別にラジャーとともに、
母のイマジナリーフレンドとともに仲良く過ごしてもいいはずだ。
だが、お別れしてしまう。

この作品の監督はあの「二ノ国」の監督だ。
二ノ国のラストもわけのわからない展開になっていたが、
この作品もどう受け止めていいのかわからなくなってしまう。

アマンダが父の死を受け入れて大人になったからこそ、
大人になっても母のようにイマジナリーフレンドと再開できると
わかったからこその、お別れなのかもしれないが、
別にそれが「今」でなくてもいいのではないか。

もしかしたら、いずれ別れの時が来るかもしれない。
そういう可能性を示唆しつつも子供時代の今は
別れなくても良い、トイ・ストーリー1や2のような
ラストで良かったのでは…?と感じてしまうラストは
制作側との解釈違いを産んでしまう作品だった。

総評:あまりにも大きすぎる解釈違い

全体的に見て悪くはないのだが、最後でとんでもない解釈違いが生まれる作品だ。
イマジナリーフレンドという題材は面白く、
想像の世界の自由なアニメーションの表現は面白いものの、
癖のあるキャラデザと作画は好みが分かれるところだろう。

ストーリーに関してもやりたいことは痛いほどわかる。トイ・ストーリーだ。
しかし、トイ・ストーリーと違い設定がてんこもりすぎるうえに、
それが作品の中で多くのキャラクターとともに活かしきれていない感じが
ものすごく強く出てしまっている。

特に中盤でラジャーに優しくしてくれたイマジナリーフレンドの
女の子が「ミスター・バンティング」によって殺されるのだが、
殺されて存在が消えると、彼女のことをラジャー以外の
イマジナリーフレンドは覚えていない。

なぜラジャーだけが忘れていなかったのかなどの説明もなく、
「ミスター・バンティング」のイマジナリーフレンドの
唐突な心変わりや、
終盤のラジャーとアマンダの別れなども唐突すぎる感じだ。

そんな説明が足りない部分があるのに説明セリフも非常に多く、
主人公の母と冷蔵庫のシーンの説明など、
「見て伝える」のではなく「キャラに喋らせる」ことで
説明しているシーンが多いため、それが余計に
作品を冗長なものにしてしまっている。

ところどころ涙腺を刺激されるシーンはあるのだが、
どうにも「泣き」を強調するような部分が多く、
大げさすぎる涙の描写や、メインキャラの死、
そして最後の唐突な「別れ」も泣かせるための展開だと感じてしまう。

このラストの展開さえ違えば、もう少しこの作品を
素直に面白かったと言えるかもしれないのだが、
最後の最後で壮大な解釈違いが起きてしまった作品だった。

個人的な感想:爆死

この作品の興行収入はとんでもなく悪い。
スタジオポノックの長編映画の1作目である
「メアリと魔女の花」は32億円の興行収入をたたきだしたが、
あれは相当にジブリによせたキャラデザとポスターで勘違いさせた、
ある種のジブリ詐欺によるものだ。

そんなジブリ臭を今作は若干抑えてはいるものの、
キービジュアルが宗教映画のようなクォリティで、
公開時期もディズニー最新作である「ウィッシュ」と
同じ日に公開というなんとも挑戦的なことをしている。

しかも上映館も凄まじい。なんと414館だ(苦笑)
これはジブリの「君たちはどう生きるか」よりも多い。
それほど賭けた作品だったのだろう。
日テレも絡んで、KDDIとのコラボなどもしており、
宣伝費も相当かけている。

だが、初週の興行収入はたった7000万円だ。とんでもない爆死だ。
もちろん、コレ以下の興行収入のアニメ映画は多くあるが、
これだけ上映館数で、これだけ宣伝費を賭けて、
おそらく制作費もかなりかかっているのに、
7000万は確実に赤字だ。

しかも公開1週間後にはスパイファミリーの映画も始まる。
このレビューを書いているのは12/22日であり、
12/23日の屋根裏のラジャーの上映回数は1日に
映画館によっては2回か3回くらいに減ってしまっている。

最終的な興行収入は3億いくかどうかすら怪しい。
制作のスタジオポノックは倒産や解散の危機にあったようで、
そんな中で本作をようやく完成させたようだが…
この興行収入では倒産も現実味を帯びてくるかもしれない…

せめてキービジュアルだけでも、もう少しなんとかなれば
足を運ぶ人も多かったかもしれない。
なんでこんな宗教臭いキービジュアルになってしまったんだろうか…

ラジャーを演じた寺田心さんの演技は本当に素晴らしかったため、
それだけは唯一素直に評価できる部分だが、
果たしてスタジオポノックの未来は今後どうなるのか…
気になるところだ。

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その他:岩佐 まもる, その他:スタジオポノック

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