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最低最悪のジェネリック新海誠監督作品「好きでも嫌いなあまのじゃく」レビュー

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好きでも嫌いなあまのじゃく 映画
画像引用元:(C)コロリド・ツインエンジン
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この記事を書いた人
笠希々

オタク歴25年、アニメレビュー歴13年、
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評価 ☆☆☆☆☆(5点) 全102分

『好きでも嫌いなあまのじゃく』予告編 – Netflix

あらすじ 山形県に暮らす高校1年生の八ッ瀬柊は、人に嫌われたくないという思いのあまり、気づけば頼まれごとを断れない性格になっていた。引用- Wikipedia

最低最悪のジェネリック新海誠監督作品

本作品はNetflixオリジナルアニメとして制作され、
劇場公開も行っているアニメ映画作品。
監督は柴山智隆、制作はスタジオコロリド

優等生

主人公はいわゆる優等生な男の子だ。
まじめで社交性もある、しかし、なぜか彼には友達がいない。
別にいじめられているというわけでもない、
話しかけられないというわけでもない。

しかし、なぜか彼は「集団」になじめず、
それを自分自身で改善しようと積極的に試みているのに
うまくいかない少年だ。
挙句の果てにはクラスメイトの女子に彼氏のフリを
頼まれてしまう。

ラブコメ作品なら、そこから恋愛展開が巻き起こっても
おかしくないのだが、この作品はそういう展開にすらならない。
そんなうだつのあがらない彼が出会うのは
見ず知らずの困った少女だ。

彼女を主人公の家に招待し、彼女と主人公の家族とともに
夕飯を食べ、一泊泊めてしまう。
この序盤の段階では話の方向性が一切見えず、つかみどころがない。

作画のクォリティは高く、ヒロインである「つむぎ」の
キャラクターデザインは優秀であり、刺さる人には刺さるデザインだが、
主人公と同じく、序盤はいまいちパッとしない
そんな彼の中から湧き出た「子鬼」、そんな子鬼を狙って怪物が
彼を襲いだす。正直よくわからない展開だ。

小鬼

すると唐突にヒロインにある角が主人公にも見えるようになる。
彼女は「鬼」と呼ばれる種族であり、
人間は自分の本当の想いを隠していると「小鬼」というものが
あふれ出ることがある。

思春期の青年が本性を隠しただけで小鬼があふれでる、
しかも、子鬼がいっぱい出る人間はいずれ鬼になるらしいのだが、
そういう設定なのはわかるものの、そんな設定ならば
そこら中、鬼だらけになってそうな感じだ。

ヒロイン自体は生まれたときから鬼らしく、
母親を探しにやってきたらしいのだが、
そもそも、この世界において「鬼」という存在が
人間たちにどの程度認知されているのかもわからない、

主人公がヒロインが鬼であることをしっても、
特に驚くわけでもないが、鬼の知識はほぼない。
この世界でどういう立ち位置に鬼がいるのかがあいまいだ、
感覚的にはちょっと珍しい国から来た
珍しい身体的特徴を持った外国人くらいの驚きである。

彼女が目指しているのは「日枝神社」と呼ばれる場所であり、
土地勘のないヒロインを助けるためにも、
主人公は彼女に頼まれて彼女を案内することになる。
そもそも、その日枝神社とやらがどこにあるのか、
いったいどれくらいの距離なのかを明示してくれない。

「明日も学校あるし」と主人公が言うくらいだから、
彼らがいる場所から少なくとも1日はかかるようなのだが、
家にも戻らず、家族にも告げず、家から飛び出た格好のまま
「徒歩」でロードムービーが始まる。

これほど意味不明なロードムービーは初めてだ。
これですぐに日枝神社に行かなければ誰かが死んでしまうだの、
何らかの制約や時間制限があるならともかく、特にない。

なら一回せめて家に帰って家族に言うなり、
家族にはいわないにしろ、最低限の手荷物を持っていけばいいのに、
彼らはTシャツで短パンでサンダルのまま手ぶらで
1日以上かかる道を徒歩で向かう。

ちょっと意味がわからなすぎる。
これで小学生くらいならばともかく、主人公は高校生だ。
登場人物の年齢設定に対しての行動があまりにもバカっぽい。
一応主人公は父親との問題を掛けており、
家で感覚なのかもしれないが、それにしてもだ。

ロードムービー

序盤を過ぎると日枝神社を目指してロードムービーが始まる。
徒歩では遠すぎるためヒッチハイクを仕出したかと思えば、
乗せてもらった車の持ち主の若い男女は古着屋を始めるために
フリマを回っており、そんな彼らの手伝いをしたりする。

手伝いの御駄賃代わりに服をゲットする(苦笑)
服すら持たずにロードムービーが始まったことを保管する
要素なのかもしれないが、服くらい持っていけば良い話だ。
そんな若い男女の問題などもどうでもよく、
そんなどうでもいい問題に主人公は首を突っ込もうとする。

ものすごくどうでもいい。
そんなことはいいから、鬼の設定などを掘り下げればいいのに、
本当にどうでもいいエピソードが序盤で描かれてしまう。

人間同士が隠している思い、本心を伝えることの大切さというものを
「子鬼」という要素を通じて描きたいのはわかるものの、
ぽっとでの若い男女でそんなエピソードをやられても
何の感情もゆる起こされず、あまりにも浅い。

本心を隠している人間が放つ子鬼を狙う怪物が
唐突に現れてアクションシーンが展開される。
ちなみに若い男女はここから二度と出てこない。

唐突に出会って唐突に分かれる、そんな繰り返しのストーリーが
常にトントン拍子で展開され、見る側の感情が追いつかない。
結局、この作品でやりたいことはすずめの戸締まりだ。
それが透けて見えてしまうだけに苛立ちしか無い。

「すずめの戸締まり」では人々のトラウマというものを描いていた。
人間は誰しもトラウマがある、そんなトラウマをミミズという
化け物、そして日本人の中にある地震に対するトラウマをつなげていた。

この作品はトラウマを本心に変えて、本心を抑えるとこぼれる子鬼を
狙って化け物が襲ってくる。物語の構造があまりにも似ている。
ロードムービーという点も同じだ。

すずめの戸締まりではトラウマを乗り越えるための要素として
人と人の絆というものを描いており、
それがロードムービーとうまくつながっていた。

しかし、この作品はそのロードムービー部分があまりにも浅い。
そもそも主人公たちが旅する動機もふわっとしており、
何日かかるかもわからないような場所に唐突に出発している。
物語の起承転結の起の部分でつまづいてしまっており、
その後もずっと転がりっぱなしだ。

旅館

ロードムービーの中で旅館にたどり着く。
旅館の女将は若い彼らを心配し、親に連絡すべきだと説得してくる、
しかし、主人公は怪我をし目を覚まさないヒロインが
目を覚ますまでここにおいてほしいと頼み込む。

理由も言わない主人公の頼みに女将はあっさりと受け入れてしまう。
普通なら受け入れないだろう、年端もいかない子どもで
片方は怪我をし熱を出し目を覚まさない。
まともな大人なら通報案件だ。

物語の整合性があまりにもなく、やりたいこと、
描きたいシューションやシーンを物語を繋いでいる。
すずめの戸締まりでも旅館のシーンがあっただけに、
制作側も旅館のシーンをやりたかったのだろう。

懸命に主人公が旅館の仕事を手伝うが特に面白くもない。
ヒロインが寝込む中で「母の幻影」を追うシーンなども、
どこかで見たようなシーンでしか無い。

あまりにも露骨に新海誠監督作品の要素、
新海誠作品で見たようなシーンばかりで構成されている。
ヒッチハイクのエピソードも、旅館のエピソードも
10分くらいしかなく、唐突に出会っては分かれてを繰り返す
浅いストーリーを繰り返している。

そんな浅い繰り返しの中で中盤になると日枝神社にたどり着く。

中盤

だが、日枝神社には母ではなく、なぜか父がいる。
父いわく母はおらず、そんなことよりも鬼の里が大変だという話になる。
中盤の時点で話についていけていないのに、
中盤で更に話がわけがわからなくなる。

主人公とヒロインは喧嘩をしてしまい、
主人公の中からは子鬼が溢れ出る、そんな彼は化け物に食われてしまう。
そんな主人公を助けるためにもヒロインは鬼の里へと戻る。
前半のロードムービー要素が役に立っておらず、
中盤になっても唐突だ。

いつのまにか主人公にも角が生えており、鬼になっている。
ロードムービー部分を排除して、この鬼の設定をもっと
掘り下げて広げてくれれば面白そうなのだが、
この作品はそういうことはしてくれない。

そもそも人間や鬼を襲う「雪の神」は鬼たちが住む村を隠すための
雪を降らせてくれる神様らしいのだが、
鬼たちがなぜ隠れ住んでいるのかという部分が曖昧だ。

ヒロインは普通に人間の街にやってきているし、
鬼の角は普通の人には見ることができない、
なぜ鬼が人間から隠れて住んでいるのか。
そのバックボーンが曖昧だ。

一応説明はしてくれる、自分の気持ちを隠して生きているような人間、
そんな人間たちが自分らしく居られるような場所が鬼の里らしいのだが、
鬼同士で集まったところで自分の気持ちを隠して生きるような人はいるだろう、
この説明では隠れ住んでいる理由として説得力不足だ。
そもそも生まれながらにして鬼の子もいるからこそ、
余計にわけがわからなくなる。

鬼になってしまう理由も本心を隠し続けることで子鬼が発生し、
いつのまにか人間が鬼にになってしまうという設定だが、
そんな設定ならこの世の中鬼だらけだ。
少なくとも全世界の4割くらいの人間は鬼になっていてもおかしくない。
マイノリティではなくマジョリティでさえある。
設定がおかしいため、物語に説得力が生まれていない。

生贄

簡単に言えばヒロインの母は「生贄」だ。
村を隠す雪の神と契約するために仮面を被ることで、
雪の神は雪で村を隠してくれる。
だが、生贄なったヒロインの母の寂しさが暴走し、
人を襲うようになってしまう。

鬼が何人いるかしらないが、
500人くらいの鬼の生活を守るために、一人が犠牲になっている。
一人が犠牲になり大勢が救われるか、
大勢が犠牲になる代わりに一人が救われるか。
これまた、すずめの戸締まりでもやった展開だ。

すずめの戸締まりの場合は地震、ミミズの暴走という
犠牲の意味も感じるものだったが、前述した通り、
この作品は鬼の里という隠れて住んでいる意味を見いだせないものを守るために
なぜか一人を犠牲にしており、当たり前のように鬼たちもヒロインの母を犠牲にしている。

根本の設定がおかしいためツッコミどころまみれだ。
終盤はなんやかんやでハッピーエンドになり、
唐突に主人公とヒロインが天気の子よろしく空中に浮き出す。
色々と突っ込みどころと新海誠パロディがひどすぎる。

極めつけはラストの意味不明さだ。
なぜか鬼たちは人間たちから隠れて住みたい、そこはまだ飲み込もう。
隠れて済むために雪の神に生贄をささげることで
雪で鬼の里を隠してもらう、ここもまだ飲み込める。
しかし、ラストで意味不明な設定が出てくる。

鬼の里への入口は鬼しか入れない。
ならなんで生贄を捧げてまで隠す必要があったのか
最初から最後まで本当に意味不明な作品だった。

総評:あまりにも酷い新海誠パロディ映画

全体的に見て、ここまでひどい作品は久しぶりだ。
作画のクォリティ自体は高いものの、
そんな作画のクォリティを帳消しにするほどの
ストーリーの酷さと意味不明さで溢れかえっている。

本心を隠しつづけた人間はいつか鬼になる。
この基本的な設定自体は面白いのだが、
物語の序盤から終盤まで「すずめの戸締まり」の真似ごとをしつづけ、
要素を真似ただけの劣化コピーにしかすぎない。

中盤からは基本的な設定が破綻しているため、話も破綻している。
普通の人間からは角が見えないため人間と変わらない見た目にしか見えない鬼、
そんな鬼たちはなぜか人間から隠れて住んでいる。

その理由自体もふわっとしており、
鬼になる設定が本心を隠し続けることならば、世界中は鬼まみれだ。
おそらく鬼同士の子どもも鬼になるようなので、
100年もすれば人間よりも鬼のほうが多い世界になるだろう。

そこを飲み込むとしても、ヒロインの母を犠牲にしてまで
鬼の里を人間から隠してもらう風習が自然と根付いているのも
意味不明であり、そこを飲み込めたとしても、
そもそも隠さなくても鬼以外は鬼の郷に入れないという設定が
ラストで明かされることで作品のわけの分からなさが極まっている。

新海誠監督作品、すずめの戸締まりをやりたいのはわかるが、
それがあまりにも露骨であり、嫌悪感しか感じない。
露骨なすずめの戸締まりの劣化コピーだ。

私はいろいろな作品の要素が別の作品で出てくるのは
面白ければ有りだとおもっており、パクリだの何だのは言わない。
しかし、この作品は真似しておいて、取り入れておいて、
劣化コピーにしかなっていないのが腹立たしい作品だった

個人的な感想:青春SF恋愛映画のフランケンシュタイン

「君の名は」のヒット以降、青春SF恋愛映画は数多制作され、
「君は彼方」のようなとんでもない作品も生まれたが、
そんな青春SF恋愛映画のフランケンシュタインたちを
一瞬で抜き去るほどの酷さを感じる作品だった。

あまりにもヤッてることが露骨だ。
それを差し置いても基本的な設定があまりにもガバガバで、
話の展開も唐突なうえ、そのシーンは必要なのか?というような
シーンも多く、最初から最後まで話についていけない。

スタジオコロリド制作のオリジナルアニメは
どうにもぱっとしない作品が多かったが、
この作品は別のベクトルで厳しい作品だった。

「好きでも嫌いなあまのじゃく」に似てるアニメレビュー

「好きでも嫌いなあまのじゃく」は面白い?つまらない?

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  1. 匿名 より:

    近場の映画館で予告編すら見たことが無いのでどこで上映してるのかと思ったら山形県、岡山県、兵庫県のみという謎。そして脚本家がトラペジウムと同じ柿原優子氏でここまで評価が異なるというのも…(あちらはかなり原作者の意向が入ってるとは思いますが)